豊臣大阪城と徳川大阪城 支持するのはどっち?
2017年 09月 11日
9月に入り、日中も爽やかな風が吹く秋へと季節は移り変わってきています。
皆さまお元気ですか?
空気が澄んできて空に浮かぶ月もキレイだし、秋の夜長の読書が楽しみな今日この頃です。
一昨日ふと思い立って、最近日本史にハマっている小5の甥っ子を連れて大阪城へと行ってきました
私は育ちが大阪なので大阪城は学校の遠足でも行ったし、すごく身近なお城なんです(皆さんもそうではないですか?)。
だけど甥は奈良市内に住んでいるのに一度も行ったことがないそうです。
まぁ奈良は大阪より何倍も遺跡や古墳・寺院が数多くあるので、遠足でも校外学習でも大阪まで行かなくても県内だけで行くところはたくさんですもんね。
…ということで彼の希望の大阪城に久しぶりに行くことになりました。
【大阪城】
言わずと知れた天下人・豊臣秀吉が天正11年(1583年)、浄土真宗の蓮如上人率いる石山本願寺跡に築城を開始しました。
もともと織田信長が安土城を築城した後、度重なる石山本願寺との戦いの末、ここに大阪城を築城しようと考えていました。
しかし本能寺の変で信長が没し、政治の主導権を握った秀吉が豪華絢爛な城を築き上げました。
秀吉の没後、政権は徳川家に移り、幕府を磐石なものとしたい徳川家康軍と秀頼率いる豊臣軍との戦い・大阪の陣(冬の陣と夏の陣)にて激突、徳川軍の勝利により落城しました。
その後2代将軍秀忠の命により元和6年(1620)から10年かけて再築。
その際、豊臣時代の大阪城の上に再築されたので地下には石垣が眠っています。
再築された徳川時代の天守も寛文5年(1665年)、落雷により消失(奇しくもその日は秀吉の命日だったとか?!)。
今の天守閣は昭和6年(1931年)市民の熱意により復興されました。
私が昔訪れたリニューアルされる前の大阪城のイメージといえば、古くて薄暗くて人形がとてつもなく怖~い記憶が残っています(特に茶々の人形は髪もボサボサ幽霊?みたいだったので未だ忘れられません💦)
でもリニューアルされてからはエレベーターも付いたし、館内も明るくなり展示物の内容も充実しています
映像で大阪夏の陣の屏風の内容説明があったり、秀吉の生涯が見れるようになっていたり、各階ごとにテーマがあって見やすい❗
また館内では有名武将の兜と陣羽織を着ることのできる衣装体験も楽しいです🎵(有料)
調子こいて私も甥っ子と一緒に撮ってもらいました
ちゃんとした写真ではバックの緑のところに夏の陣の屏風絵が合成されます💦
質問です!
甥は昨年の大河ドラマの主役【真田幸村(信繁)】ですが、私がかぶってる兜の武将はダレ???
ヒント : 猛将と呼ばれた肥後の築城の名手ですよ
(答えはblogの最後で~)
実はこの日、土日限定の「櫓~内部特別公開~」チケットが用意されていまして、普段見ることのできない大手口多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵もボランティアガイドさんの話をゆっくり聞きながら見てきました。
大手口多聞櫓⤴
なんだか時代劇のセットみたい♥
ちなみに10時一番乗りだったので、私たちと外国人の人がひとりだけしかいなくて貸しきりみたいでした🎵
今までこの櫓の下を何度も通っていたのに全然すごさをわかっていなかったことが恥ずかしいです
櫓と呼ぶには勿体ないくらい、床板一枚でさえしっかり考えられ作られていますし、ここで普通に生活できるやん❗って思える空間が広がっていました。
多聞櫓の内部は長屋のような作りなので、以前行った姫路城を彷彿とさせますが、こちらのは軍司目的のものなので姫路城とは用途が違っているんですね。
千貫櫓も当時使われてきた櫓のようですし、その時代を知らない後世の人々でも実際こうして体験することで城作りの大変さの一部を実感できるんですね。
これは焔硝蔵(えんしょうぐら)⤴
石造りの火薬(合薬)庫。
江戸時代のまま現存しているのは日本でもここだけなんだそうです。
海外に比べ日本の気候的にも遺産を残していくことは難しいとは思いますが、これからも日本中の貴重な遺産を数多く残せていけたらいいなぁと、そしていま復興修復中の熊本城に一日も早く、以前のような雄々しい姿が見れる日がくることを祈っています。
クイズの答え : 私の兜の持ち主は…肥後の国、熊本城主 加藤清正公のものでした
皆さんわかりましたか~?
by ypstudio-karen
| 2017-09-11 12:23
| 神社仏閣・お城めぐり
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